第五十四夜 勾配

 工学者にとって、「勾配」というと何を思い出すでしょうか。様々な物理量で勾配を定義できますが、ここでは最も初歩的な地形の高さで、勾配を考えてみたいと思います。小さい子供、特に男の子は、自分の周りで動くものに興味を持ちます。自動車や鉄道などの、人を乗せて動く乗り物は幼児の絵本で扱われる代表的なテーマになっているように思います。筆者も、例外ではなく、小さいころから乗り物には特別な興味を持っていました。興味は途絶えることなく続き、今も乗り物に関する話題は、自動車であれ、鉄道列車であれ、人並以上の興味を覚えていると思っています。ですから、勾配というと、すぐ鉄道を連想してしまいます。急勾配の鉄道で使われるアプト式とかスイッチバック式など、鉄道と勾配がすぐ連想されてしまいます。鉄道では勾配は、‰(パーミル)という単位が使われます。これは、水平の距離に対する高さの比率を1000分率で示し、‰(パーミル)という単位記号が使われます。例えば、35‰の上り勾配というと、電車が1,000m進んだとき35m上ることを示します。日本では、国土交通省が、最急勾配の目安を示していて、新幹線を除く普通鉄道の場合、機関車にけん引される列車があるときは25‰、機関車列車がない場合は35‰、リニア推進(東京都の大江戸線などが有名です)の場合は60‰、列車の停止区域は5‰と指示されているようです。新幹線では、急勾配が高速走行の妨げになることから、最急勾配を15 ‰とされています。ただ、状況によっては緩和されて運用されているようです。筆者は、中学、高校と電車で通学していました。電車好きですので、中高生になっても通学の際はできる限り、運転席の後ろに陣取り、信号やこうした勾配や最高速度、回転半径を表す標識に注意を払い、さらに運転手がこの標識や信号を認識して安全運転をしているかを監視していました。当時は、筆者が利用する私鉄では、まだ大正年間製造のプレートを付けた電車が走っていました。ドアは手動で乗客が勝手に開閉していました。発車する際は車掌が回転式の鍵をかけていましたが、時々、掛け忘れたのか、走行中にドアが開いてしまったこともあったように思います。そんな電車ですから、列車自動停止装置(ATS)などといったしゃれた安全設備はついていなかったと思います。筆者が監視していたためか、信号無視をする運転手はさすがにいませんでしたが、制限速度を明らかに超過して運転する運転手は時々いました。電車にはブレーキ用の圧力計しかついてなく、スピードメータもありませんでしたが、惰性走行をあまり使わず、力行を多用する運転手もいた気がします。少年としては、速度制限の標識には安全率があり、勾配や回転半径の標識と安全速度の関係を考慮して、限界速度まで電車を飛ばす、力行主体の運転者が好きでした。ただ、父親から、父親の中学時代、同じ鉄道で、結構きついカーブをスピードオーバーで脱線転覆した電車があると聞いていたので、度を過ぎて力行する運転手には怖いと思いました。脱線転覆場所と聞いていた場所は、ちょうどお寺の墓地に隣接する急カーブの所でした。今でもその通学に利用した電車に乗ると、その場所が気になります。通過する際、つい、お墓に目が向きます。中学時代から電車のスピードは目測で測りました。コナンドイルの小説にあるシャーロックホームズが用いた方法と同じです。電車の架線を支える電柱から電柱までの通過時間から計算するものです。ただしカーブでは電柱の間隔が変わっていたように記憶していますので、あまり確かな方法ではなかったと思います。その電車はよく勾配を利用していました。下り勾配ではじめ力行し、その後、惰性で走って、登り勾配の中ほどまで惰性で走り、速度が落ちたところで、ふたたび力行するのが常でした。運転手により、惰性区間の長い人と短い人がいて、筆者は、惰性の利用が少なくて、力強く力行を使う運転手が好きでした。

 ゲレンデスキーをされる方は、スキー場の勾配に敏感だと思います。30度を超える急斜面は、「壁」と称します。初心者の行く手を恐怖で阻む急斜面です。30度の急斜面ですと、上から下を見ると緩斜面から急斜面に変化する場所などは、その先の急斜面が目視できないため、まさに地面が垂直に切り立った崖のように感じられます。勾配が多少変化することで恐怖や緊張を倍加させます。ゲレンデの30度は、三角条規の30度で想像できる勾配ではありません。この勾配は鉄道と同じ水平距離と高さの比で表すと、約60%、‰(パーミル)で表すと600‰ということになります。鉄道列車ではとても登れませんし、下ることもできません。乗り物では、無限軌道を備えた雪上車やブルドーザーでないと、安全に上り下りはできないでしょう。初心者も含めて、楽しくゲレンデスキーを堪能できる斜度は、10数度といいますから、30%、‰(パーミル)で表すと300‰になります。鉄道列車の許容急勾配の10倍です。この斜度を人力で登るのはやはり大変です。リフトやゴンドラが整備されていない時代に、この勾配を足で登り、スキーを楽しまれた先輩諸氏には頭が下がります。

 鉄道やスキーの話から、また話題を大きく変えて、ゴルフ場に転換します。ゴルフは、この地形の高低差が原因で、多くの泣き笑いが生じて、ゴルフ人生が豊かになります。海外のゴルフ場の多くは、水平な地形に開設されることが多いようですが、日本では、ゴルフブームによりゴルフ場が急増した時期、土地取得が容易な山岳地形の場所に開設されることが多く、高低差のあるゴルフ場が数多くあります。また、スキー場の緩斜面(勾配30%以下)を利用して、夏はゴルフ場を営業するスキー場も、たまに見かけます。筆者も少しはゴルフをプレーしますが、河川敷のゴルフ場などを除けば、山岳地形で、高低差があるゴルフ場でプレーすることがほとんどです。ゴルフ場の高低差は、ゴルフを面白くする要素の一つになります。ゴルフクラブを振ってボールを飛ばすショット地点とボールの落下地点の高さに差があることで、キャリーとランの飛距離が変わります。このため、意図した地点にボールを運ぶことは、高低差があると難しくなります。また、ショットの目標を見上げる、もしくは見下ろすことになると、視覚的な錯覚が起きやすくなって、距離感を見誤りやすく、その分、競技を豊かにします。ゴルフ場で高低差を正しく見積もることは、良い成績を残すための必要条件になります。あるゴルフ雑誌に、ゴルフ場でのこの高低差を正しく見積もる方法があると書いてありました。それはなんと、中学で学習する三平方の定理(ピタゴラスの定理)で、水平距離(多くのゴルフ場の距離表示は水平距離表示です)と目標までの直線距離(レーザー距離計など最新のゴルフグッズで普及しているようです)から高さを割り出すとのことです。しかし、こうした計算はなかなか暗算で、できるものではないので原理的にできるというお話で、実用性はないと断じていい気がします。実際に三平方の定理を使ってゴルフ場の高低差を評価する人などいないでしょう。最新のゴルフグッズのレーザー距離計は、目標の仰角もしくは俯角から高低差を割り出すようですが、残念ながら正式なゴルフ競技ではこの機能は使用していけないそうです。

 目標が高い位置にある打ち上げのショットでは、ボールの落下地点がショット地点よりも高くなります。そのため高低差がない状況でショットを打ったときよりも、着弾がより早くなります。そのぶんボールの滞空時間は短くなり、キャリーは減少してしまうことになります。ゴルフクラブにはクラブがボールと接触するクラブフェースに角度がつけてあり、ロフト角といいます。この傾きの度合いが打ち出し角度を大きく決めますが、ロフト角が小さく高さを出しづらいクラブほどボールの降下角もゆるやかになるため、高低差によって失うキャリーの飛距離は大きくなり、ボールが目標に届かないショートの危険性が高まります。逆に高さを出しやすいロフト角の大きなクラブはキャリーの減少幅も少ないため影響を受けにくくなります。ショットの際のゴルフボールの初速は、野球投手の投球に比べかなり早く、時速200km/h(約60m/s)以上になるといいます。もちろんプロ、アマの違いや、体力の違い、巧拙の違いで、大きく変わります。滞空時間も様々ですが、ナイスショットであれば3-4秒程度のようです。この着弾する最後の1秒間ぐらいの高低差が、水平距離に大きな影響を与えるわけです。横風も着弾地点に影響します。風速5m/s程度の横風でも3-4秒の滞空時間があれば、ボールを数10メートル、横方向に運んでしまいます。

 世界初の電子計算機として著名なエニアック(ENIAC)は、大砲の弾道計算をするために開発されたという逸話が有名ですが、正確なゴルフのショットも、正確な弾道計算と正確なショットが求められます。しかし、ほとんどのゴルファーで、このような精密な弾道計算をしてゴルフを行う人がいるとは思えません。そもそも、大砲などと違い、人がクラブを振ってショットするゴルフでは、ショットの再現性が乏しく、このような弾道計算を行う前に、自身のショットの再現性を確保するべく練習に励むことが求められます。プロなど限られた人を除くと、多くのゴルファーはゴルフ場の高低差や風の影響などを考慮する前に、自らのショットの不確実性が、ギャンブル的な要素として、ゴルフの楽しみを広げているに違いありません。

 今も、世界には他国に武力侵攻する国があり、榴弾砲を大量に使用しているといいます。攻め込まれた国が、周りの援助国にもっと榴弾砲を供与してほしいと言っているそうです。榴弾砲は、同口径のカノン砲(懐かしいですね。昔、ミサイルがないころ、軍艦などに良く積んでいました)に比べて砲口直径(口径)に対する砲身長(口径長)が短く、低初速・短射程であり、高仰角の射撃に用いるようです。ゴルフクラブでいえば、ロフト角が大きく、高仰角でゴルフボールを運ぶショートアイアン系ということになるのでしょうか。ロフト角の大きなクラブはキャリーの減少幅も少ないため、地形の高低差の影響も受けにくくなるといいます。榴弾砲もそうした特性が有用ということで多用されているのでしょうか。このように戦争に結び付く連想は疲れてしまいます。この辺でやめにしておきます。