第四十七夜 憲法

 日本は4月の終わりごろから5月の始めにかけて祝日が続きます。「飛び石」になることもありますが、「連休」となり、「ゴールデンウィーク」と言われています。筆者は、小さいころ、この「ゴールデンウィーク」が楽しみでした。母の実家に泊まり込んで、叔父さんや叔母さんに遊んでもらい、お祖父ちゃんやお祖母ちゃんに優しくしてもらえるのがとてもうれしかったのです。母は年上の長女で、若くして結婚して筆者を生んだので、叔父さん、叔母さんも、少し年長の遊び友達のような感覚であったように思います。小学校の教員であった祖父も、外孫ですが、初孫の成長を喜び、教育的配慮により農業体験や、地域行事に連れ出し、日常とは異なる生活体験をさせてくれました。ただ「ゴールデンウィーク」の母の実家での楽しい思い出は、小学校の高学年になるころには終わってしまったようにも思います。お泊りで遊びに行くことも少なくなり、同級生との交友が楽しくなり、学校や地域のクラブ活動がより楽しくなったように思います。

 中学時代の「ゴールデンウィーク」に、今も残るような楽しい思い出はあまりありません。ただ、普段食べなれない、「ちまき」が食べられる5月5日の「こどもの日」や、何やら新聞やテレビのニュースが特集する5月3日の「憲法記念日」に、多少の思い出があります。日本語としての日本国憲法の文章です。筆者の両親が子供の時代は、学校で日本の天皇の名前を初代からすべて暗唱させられたと聞きました。筆者の時代というか、通学した中学が特殊だったかもしれませんが、日本国憲法の全文を暗唱することを強制されました。社会科の時間にです。暗記、特に丸暗記の学校での強制は、「悪」そのもので、考えること、考える力を養うことが、「善」だと言われていました。学校は、考えることを養うところで、丸暗記を強制するなんて、とんでもないことだと驚きました。試験で、日本国憲法の「穴あき問題」(憲法の主要な部分の単語がところどころ、白抜きとなっており、この部分に正しい単語を入れる問題)が課されました。イヤイヤでしたが、いい点を取りたいばっかりに、筆者も丸暗記に取り組みました。おかげで、少なくとも大学、大学院生時代ころまでは、前文と103条の全文を暗唱するができたと思います。ただ最近は年のせいか、暗唱も難しくなりました。

 しかしこの前文、中学生なりに、違和感を持ったことを覚えています。「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」というのが前文の最初のフレーズです。中学では文法も学びましたが、このフレーズは、日本語として模範になる文章かと疑問を抱きました。なんといっても日本国憲法で、日本の法律の大元になるものでしょうから、模範的な文章であるべきでしょう、などと感じました。作文でこうした文を書いたら、先生に赤ペンで直されると思ったものです。このフレーズ、主語は、「日本国民」ですが、述語は、「行動し」、「確保し」、「決意し」、「宣言し」、「確定する」の5つもある「重文」です。重文は伝わりにくくなるので、避けるように言われていました。しかし、日本国憲法は、その最初で、5つの単文を一つの重文にまとめています。これが、分かりやすく、模範的な日本語なのかしらと、まず、思ったことを覚えています。重文を構成する単文は、主語が同じであるので、冒頭1回だけ示し、その後の主語は省略しています。まあしかしこれは、国語で習いましたが、日本語の伝統かも知れません。恋人に向かって、「貴方」という主語を一語、述べておいて、「可愛い」、「愛嬌がある」、「きれいだ」、「スタイル抜群」、「大好き」と言っているような感じです。古文が苦手な筆者には、昔の日本語は理解しがたいものでした。分かりにくい重文なんかにせず、単文で分かりやすく表現すべきではないかと思ったものです。最初のフレーズには、まだ異議があります。「行動し」の述語の後に、「われらとわれらの子孫のために」という言葉が入っています。これは「確保し」が受けているのか、あるいは、その後に続く、「決意し」、「宣言し」、「確定する」の3つの述語も受けているのか、とても分かりづらいです。「われらとわれらの子孫のために」の後に読点の「、」のが入っているので、「確保し」、「決意し」、「宣言し」、「確定する」の4つの述語に対する修辞と受け取るのが、多分正しいのでしょう。しかし、「われらとわれらの子孫のために」という修辞は、必要ですか? 日本国憲法ですから、そのような修辞は自明で、必要ない気もしました。

 その次も気になりました。「諸国民との協和による成果」の「諸国民」は、地球上の全人類を指すのでしょうか? 「協和による成果」は、仲良し諸国民との協和というより、その諸国民を代表する政府との協和というのが現実的な気がしました。だって、前のフレーズを考えると、日本国民と同様、諸国民も正当に選挙された国会における代表者を通じて行動するのでしょうから、「協和による成果」の多くも、諸国民の政府が関与するでしょう? しかし、現実には諸国の政府には「協和」できそうもない仲悪の政府もありそうです。現実に世界は、いわゆる共産圏と自由圏の冷戦の時代が存在し、「協和」ができそうもない国があるような雰囲気でした。このようなあり得ないことを前提にして、本当に良いのでしょうかと感じてしまいました。自分の周囲を見渡したって、協和できなそうもない人も数多くいるように思えます。ましてや、そのころ読んだ小説の世界には、裏切りや欺き、復讐など非人情も数多く描かれていて、とても性善説に乗れる気がしませんでした。その次も気になりました。「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにする」と言っています。「戦争の惨禍が起る」という単文が含まれた複文になっています。この「戦争の惨禍が起る」の主語は「惨禍」であって、「戦争」ではありません。文章は、「惨禍が起ることのないようにする」と言って、さらに「惨禍」を「戦争の」で修飾しています。「惨禍」がなければ、「政府の行為によって再び戦争が起こること」は、容認している文として解釈できそうです。起こっていけないのが「惨禍」ではなく、「戦争」なら、「惨禍」などという修飾は切って、「政府の行為によって再び戦争が起こることがないようにする」と書くべきでしょう? 純真爛漫な中学生は疑いつつも丸暗記は、しました。しかし、割り切れない解釈の難しいフレーズで、模範的な文には思えませんでした。しかしまあ、「憲法」の解釈は、「憲法学者」や「憲法の番人」で最高裁判所の専門家に任せることとされていましたので、中学生の筆者はこうした疑問には、蓋をして現在に至っております。

 折角ですから、日本国憲法前文の続きの文章も掲載しておきます。「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。」とあります。この中に「これは人類普遍の原理であり」とあります。原理というからには、物質の保存則やエネルギーの保存則などの物理則と同じで、原理であることが証明されてなくてはなりません。しかし、その原理が通用しない国が今も、世界に多数あります。その存在は、「人類普遍の原理」の確かな反証でしょう? 少なくとも「人類普遍の原理」は、原理ではなく、期待を表す言葉でしかないことは明らかでしょう。続けますが、この後半は素直に読めそうな気がしました。「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。われらは、いずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務であると信ずる。日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う。」 とあります。後半は、「人類普遍の原理」などと大上段には構えていません。「日本国民は、このように考え、信じ、行動する」と言っているので、神がかり的な印象は薄れ、知性的な印象を与えているかもしれません。ただ、主語は、「日本国民」としています。文章的にはすべての「日本国民」、日本国民全員が、このように考え、信じ、行動すると言っているよう思えます。これって、全体主義と変わらない決めつけの様にも感じますが、如何でしょうか。日本国民の大多数の人がこのように考えることは望ましいことで、良いこととは思います。しかし、日本国民全員がこのように考え、行動すると日本のみならず諸外国に宣言することには、偽善の香りを感じてしまいました。

 今から思えば、筆者は、随分、素直でない、皮肉屋的な中学生だった気がします。しかし、中学時代の筆者を今から擁護するなら、これは、丸暗記を「悪」といい、考えることを「善」と言っていた教師が、日本国民として、憲法を全文、諳んじることは当たり前と、日本国憲法の丸暗記を強制した故に、発してしまったような気がしています。

 流体シミュレーション、CFDを操る人々にも、日本国民が、日本国憲法の全文を諳んじられるように記憶すべき原則があるようにも思えます。何せ、日本国憲法は、前文とたった百三条しかない短いもので、中学生が全文、暗記できるものです。CFDの憲法を作成してみたい気がします。日本国憲法前文の一部を、流体シミュレーション用に書き換えてみます。不敬と言わないでくださいネ。「流体シミュレーションに関わる技術者は、流体解析技術の恒久の発展を念願し、流れの関係を支配する物理原則を深く自覚するのであつて、流体解析技術の工学的応用を希求するクライアントの真摯な要望を信頼して、われら流体シミュレーションに関わる技術者の職業倫理と信頼を保持しようと決意した。われらは、工学的有用さを維持し、欺瞞と偽計、詐術と偏執を地上から永遠に除去しようと努めている技術者社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。われらは、全世界のクライアントが、ひとしく迷信と思いこみから免かれ、科学的信頼のうちに信頼する権利を有することを確認する。われらは、いずれの技術者集団も、自らの解析技術のことのみに専念して他者の解析技術の展開を無視してはならないのであつて、技術者倫理の法則は、普遍的なものであり、この法則に従うことは、自らの集団の解析技術水準を維持し、他者と競争に立とうとする各技術者集団の責務であると信ずる。流体シミュレーションに関わる技術者は、自身の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う。」如何でしょうか。