第四十六夜 愚者

 「ピエロ」と呼ばれる道化師の人々がいます。「ピエロ」は、派手な衣装と化粧をし、サーカスなどに登場するコメディアンの「クラウン」のなかでも、特に馬鹿々々しい行為をして馬鹿にされて笑いを取る人をいうのだそうです。「クラウン」は、サーカスの曲芸と曲芸の間に出てきて、観客の曲芸への余韻を冷めさせず、次の曲芸につなげるおどけ役で、曲芸もできる司会的な役割をする人です。つなぎの余興として、観客いじりをして笑いを取るようなこともします。

 「クラウン」という英文名称は、英国で18世紀ごろ行われていたサーカスで「おどけ役」を演じていた役者が、自らを「クラウン」と名乗ったのが始まりだそうです。このクラウンは、「clown」で、王冠や国王を表す「crown」とは異なります。日本人が不得意な「l」(エル)と「r」(アール)の違いがあり、日本人には同じ「クラウン」ですが、英語のネイティブスピーカーには、天と地ほどの違いに聞こえるそうです。この「clown」はclod(土の塊)から派生していて、無骨な田舎者を表すものとなり、そうした人が滑稽に見えたことから「滑稽な人」を指すようになったと、ものの本に書いてありました。今、「clown」を辞書で引きますと、 (劇・サーカスなどの)道化役者、道化師、おどけ者、悪ふざけをする人、いなか者、無骨者、馬鹿、おどけ者、おどける、ふざける、田舎者、などと記載されています。

 田舎者を馬鹿とか「滑稽」と見るなんて、なんとなく都会人の優越感が鼻につき、差別を感じていやな気持になるかもしれません。そういえば、一世代、30年以上も前になってしまいますが、日本で外貨使用が緩和され、海外旅行が盛んになって、多くの日本人が団体旅行で海外のショッピングモールを襲いました。コロナ禍で途絶えてしまいましたが、最近あった中国人団体さんの海外旅行と全く同じです。日焼けして真っ黒な小柄のしわだらけの人々が、札束を見せびらかして買い物旅行し、「農協さん」の団体旅行と、陰口を言われ、小ばかにされていたことを思い出させます。最近の中国人海外旅行団体と同じですが、小ばかにしたのは、訪問地の人々などではなく、国内に残ってニュースなどで同国人の振る舞いを知った同国人です。気持ちはわかりますが、「農協さん」の団体旅行を「滑稽」とバカにした人こそ、思慮に欠け、思いやりのない、「恥ずかしい」人だった、という気がしないわけでもありません。しかし、今でも、ファッションセンスなく、チグハグな格好して、ポット出に見える人が、町中をキョロキョロしながら歩き、無礼な仕草をしているのを見かけると「田舎者」と馬鹿にして、笑いたくなる気もします。

 「クラウン」や「ピエロ」など道化師の歴史は、古代エジプトまで遡ることができるそうです。遺跡に描かれた絵や文字に、道化師と思われる人物が描かれているそうです。古代ギリシャや古代ローマでは、裕福な家には晩餐の時に、物まねや軽口、大食芸などで座を楽しませる道化師がいたそうです。また、ローマ帝国時代から16世紀末ごろまで、裕福な家では、小人症の人や知的障害者、奇形の者などを奴隷として傍に置く習慣があったそうです。これらの人々を「愚者」としてペット感覚で所有する貴族趣味が続いていたとか。中世ヨーロッパなどでは、王族や貴族などは、城の内に道化師を従者として雇っていたそうです。これら道化師達は、肖像として絵画に残されていることも多いそうですが、犬と一緒に描かれることが多く、彼らが犬と同様に王や貴族の持ち物とされていたようです。もう50年ほど昔の映画になってしまいますが、英国映画の007ジェームス・ボンド シリーズの「黄金銃を持つ男」(1974年)では、James Bond(ジェームス・ボンド)の敵役となる「黄金銃を持つ男」Francisco Scaramanga(フランシスコ・スカラマンガ)は、Nick Nack(ニック・ナック: knick knackは小さい装身具、小間物という意味)という、小人症の人と一緒に住んでいて、道化役や小間使いなどをさせていました。これもあちらの伝統ですネ。

 「ピエロ」は、愚かな行為をして、馬鹿にされて、笑いを取る人ですが、でも人は、どうして愚かな行為や言動を、馬鹿にして、笑うのでしょうか。「ピエロ」とは違いますが、多分、日本の「しゃべくり漫才」での、「ボケ」と「ツッコミ」の役割分担での「ボケ」と共通するところがあるのでしょう。「ボケ」は、冗談を言ったり、話しの中で明らかな間違いや勘違いなどを織り込んだり、また、笑いを誘う動作を行ったりして、観客の笑いを誘うことが期待されている役割です。「ツッコミ」は、ボケの間違いなどを要所で指摘し、観客に笑いどころを指し示す役割です。「ピエロ」は、日本の「しゃべくり漫才」での「ボケ」そのもので、観客に本能的、もしくは瞬間的に「ツッコミ」どころを理解させ、役割としての「ツッコミ」がなくても、「ボケ」を楽しむことができる演者といえるのかもしれません。しかし、まだ、何故「ボケ」が笑いを誘うのか、愚かな行為を馬鹿にして、さらに笑って快感を得るのか、説明になっていません。「笑い」は、辞書などによると、楽しさ、嬉しさ、おかしさなどを表現する感情表出行動の一つで、笑いは一般的に快感という感情とともに生じ、感情体験と深くかかわっている、とあります。この笑いは、社会学や、人の生理学や心理学の研究対象になっているようで、人の笑いは、「快の笑い」と「社交上の笑い」の二種、もしくは、付け加えて「緊張緩和の笑い」の三種に分類することができるとされています。「快の笑い」は自己の欲求が充足される満足感や他者に対する優越感を覚えた時に感ずる笑いで、「社交上の笑い」は社会生活における対人関係の中で見られる「ほほえみ」などにあたり、「緊張緩和の笑い」は、ストレスを感じる強い緊張状態から解放された時や、ある程度の緊張を伴うが後に無害なものと分かって安心し弛緩する時に生ずる際に生じる笑いだそうです。「ピエロ」がとる笑いや日本の「しゃべくり漫才」の、「ボケ」がとる笑いは、この他者に対する優越感を覚えた時に感ずる笑いに分類されるようです。ここは、筆者の解釈で、学問的ではありませんが、人の愚かな行為を感じて、「俺は、僕は、私は、そんな愚かな行為はしないぞ」という潜在的な優越感を感じて、「ピエロ」や「ボケ」を笑うというのが、当たっているのかもしれません。

 優越感を感じて笑うなんて、寄席に通って「しゃべくり漫才」を楽しむ人や、「ピエロ」の演技を楽しんで笑う人を、非難する気は、さらさらありません。そんなことをすると、筆者自身を自己否定することにもなってしまいます。この愚かな行為を馬鹿にして、優越感を感じて快感を得て、笑いという感情表出する人間とは一体、何のか、倫理的に正しい感情表出なのかと考えてしまいます。競争社会では、トップを狙い、日々、切磋琢磨する原動力の一つに、この優越感があるのでしょうし、現代文明を築き、発展させてきた原動力にもこの優越感が寄与してきたことも疑いないでしょう。しかし、人の愚かな行為を見て、これを馬鹿にし、優越感を感じて、快感を得るという、人間の笑いには、差別を感じてしまい、なかなか素直に受け入れることに気が引けます。しかし、まあ、世の中、この程度の倫理的な矛盾は、あふれています。毎日毎日、三度いただくご飯は、多くの植物や動物の生命をただいているわけですし、持続可能社会への移行を標榜しながら、今ある資源を使い尽くす勢いで利用していますし、人の行為は、理屈は付けられるかも知れませんが、矛盾だらけです。もう一つ、付け加えるなら、世の中でよく言われる標語ですが、「罪を憎んで人を憎まず」、というのがあります。これは、人の行為と、その行為をした人とを分離し、行為自体を主体的な対象とする考え方です。愚かな行為を馬鹿にし、優越感を感じて笑うのは、愚かな行為をする人ではなく、その愚かな行為を対象にして馬鹿にするのであり、優越感を感じるのは、その行為をした人ではなく、その行為自体に、自分はそんな行為をしないという優越感を感じると、考えることです。「しゃべくり漫才」の「ボケ」役や「ピエロ」を演じる人に人格的優越感を感じているのではなく、演じられた行為そのものに、優越感を感じているということになります。人ではなく、行為を対象にするという考え方は、ある程度、成立する気もしますが、しかし、犯罪を行う人に対して、行為を罰して人は憎まないなどということが、本当にできるか否か、怪しいものであります。

 流体シミュレーションが、最近本当によく実務の世界で使われるようになりました。でも、観察していると愚かな流体シミュレーションも良く行われている気がします。愚かな行為の定義が、目的が合理的でないとか、目的と目的を達する方法が合理的に対応していないということであれば、愚かな流体シミュレーションもかなり、あるように思えます。そもそも、何を解析し検討したいかが、あいまいで、何となく流体シミュレーション解析をしたというような学術論文も、時々見かけます。労力と時間、そのほかの資源の無駄とも思える解析が、単に流体シミュレーションが可能であるからという理由だけで行われているように思えるケースも散見します。流体シミュレーションを、「ピエロ」の演技や「しゃべくり漫才」の「ボケ」にしないで欲しいと思います。そんなことをして、識者の笑いを秘かに取るのは、あまりにつまらないことです。シミュレーションを笑いの対象にしないよう、解析目的を事前によく検討し、解析目的が達成される手法を、十分に用意して、笑われない流体シミュレーションをしたいものだと思います。