第四十五夜 権威主義

 最近、権威主義国家という言葉を聞くようになりました。権威主義国家という名前が使われるようになったのは比較的最近のような気がします。マスコミなどで、こうした言葉が良く使われるようになったのは、この10年のような気もします。個人主義に基づく民主主義は、この権威主義の対義語とされています。権威主義の対義語の民主主義は、その組織の構成員、国家であれば、いわゆる人民、民衆、大衆、国民などと称される人々ですが、その人達が最終決定権(主権)を持つという制度、政体のことを言うようです。権威主義国家は民主主義国家の対義語ですから、権威主義国家では、人民、民衆、大衆、国民などに最終決定権(主権)がない国ということになります。権威主義国家ではありませんが、西欧の王政国家などは、王が、神によってこの最終決定権(主権)を受託されており、たとえ失政しても王は国民に責任を持たないとされていました。

 権威主義は全体主義と民主主義の中間的な存在とも言われているようです。全体主義は、個人主義の対義語で、個人の自由を認めず、個人の生活や思想は、組織全体、国であれば国家全体の利害と一致するよう統制されなければならないと考える思想です。この思想に基づく政治体制が全体主義国家です。全体主義国家では、特定の個人や党派または階級によって国が支配されます。支配する人々や党派の権威には制限が無く、公私を問わず国民生活の全ての側面に対して可能な限りの規制を加えます。それに対して、個人主義は、国家や社会など、組織の一方的な権威を否定して、個人の権利と自由を尊重します。個人主義は、組織や国家、民族、家族などにおける関係性は、個人が固有に有する尊厳から生まれるものとして、人々の権利と義務の発生、関係性を規定します。個人主義は、良く利己主義の同類として誤解され、非難されることがありますが、他者の尊厳に頓着しない利己主義とは全く違います。個人主義は個人の自立独行、私生活の保全、人々の相互尊重を重んじます。その過程から、自分の意見を表明すること、周囲の組織や人々からの不当な圧力をかわすこと、ルールの平等な適用、チームワークや法の下の平等といったことに大きな価値を認めます。個人主義の社会では、各人または各家庭は、他者の同等の権利を侵害しない範囲で、自己の所有物を獲得し、それを各人が思うままに管理し、処分する便宜を享受する個人の権利に含意しています。個人主義社会が、そうではない社会、全体主義社会や権威主義社会に圧迫される事態になれば、それぞれの個人の自由や生活、思想を守るということが、全体として組織や国家を守る最大限の原動力として働くことになります。

 しかし、地球環境問題の深刻化に伴い、このような個人主義に対して制約を与えるべきとする全体主義的な議論が、個人主義を基調とする民主主義社会でも、往々にして行われる風潮が見られます。懸念すべき事態ではないかと感じます。日本が全体主義国家であった戦時に、「ぜいたくは敵だ」という標語で個人の自由な行いを統制した風潮が形を変えて、現代に舞い戻ってきたように感じることがあります。必要以上に生活水準を悪化させる省エネルギーを美徳として人々に押し付ける風潮が、なくはないようにも思える時があります。話は違いますが、昨今の新型コロナウイルス感染症の蔓延の事態でも、「マスクパトロール」というような過剰な相互監視の傾向がでてきて、全体主義的な匂いを感じることもあります。

 地球環境問題に関する全体主義的な風潮に対して、個人主義社会における持続可能社会の実現について、付け加えるのであれば、持続可能性の確保は、権利を有する個人の拡張で行うべきものです。現在は、個人として権利は、今、生きている人だけです。死者や将来生まれる人の権利は考慮されません。将来生まれてくる人に対する、今生きている人による権利侵害に対して、何らのペナルティも課されていません。将来生まれてくる人の権利は、法的に保証されていないのです。これを改め、将来生まれてくる人の権利を認め、その人たちに対する権利侵害に対してペナルティを与えることにより、今を生きている人と同じ権利を与えることが、持続可能な社会の基本原理になります。さらに言えば、人に認めている権利を、同等ではないにしろ、人以外の生き物などにも認め、これを保全すると考えることにより、環境問題は前進します。人に生きる権利、生存権があるように、人以外の生き物にも人と同様に生存権や、子孫をつなぐ権利があると認め、法的に保証するのであれば、環境問題に対しても全体主義的な思考に陥ることなく、環境問題に対応することになると信じられています。

 権威主義は、民主主義の対義語ですので、権威主義国家とみなされることは、人民、民衆、大衆、国民などが最終決定権(主権)を持つという制度、政体ではないとみなされていることになります。人民、民衆、大衆、国民などに、最終決定権(主権)が与えられず、人々は権威とされる組織や個人に服従するという、社会、組織、国家などの思想や姿勢、体制ということになります。政治体制的には、独裁政治の中でも全体主義より穏健な体制、あるいは非民主主義の総称として独裁・専制・全体主義を含めた用語として、使用されるとのことです。権威主義的な政府や統治では、政治権力が1人または複数の指導者に集中しており、その指導者は、民主主義的プロセスでの典型的な主権の行使である公正な選挙により選出されるのではなく、排他的で、人民、民衆、大衆、国民などに直接的責任を負わない恣意的な権力を持つものとされます。マスコミによれば世界には民主主義国家ばかりでなく、まだまだ権威主義国家が多くあるようです。

 民主主義、権威主義は、主に国のあり方、政体に対する用語のようですが、我々が、日常的に意識する様々な組織、例えば、家族、所属する会社、会社の部門、所属する同好会、所属する大学や研究室などの組織にも当てはまります。こうした組織内では、多くの場合、人々は対等な個人として所属するのではなく、ある種の上下関係を相互に認識させられていることが、一般的でしょう。家族には、親と子という明確な被依存、依存関係があります。昔は親であっても、親の中に性差による暗黙の上下関係もしくは被依存、依存関係が明確にあったようにも思えます。会社の中、大学や研究室中でも、個人主義に基づく法的な平等はあっても、日常業務における明らかな上下関係、被依存、依存関係は存在すると思われます。組織内のこのような上下関係、被依存、依存関係は、どうしてもその組織内で、一種の権威主義的な組織運営の行われる余地を残します。学校や会社など様々な組織内で発生する「いじめ」も、これら権威主義的な風潮に影響されているところが少なからずあるように思われます。この権威主義的な運営は、構成員の数に関係するように思われます。構成員の小さな組織では、どうしても上下の力関係が、生々しく発揮され、権威主義的傾向を強めるように思えます。構成員の数が多くなれば、生々しい権威主義は反発を招く可能性も数が多くなるが故に大きく、民主的な運営に向かう可能性は増すのかもしれません。大学を卒業する学生の方々の就職活動も、こうした数による権威主義的運営の可能性を本能的に感じ、構成員の数が少ない中小企業より、構成員の数が多い、大企業志向になりやすい気がします。権威主義的な国家は、この種の類推で考えると、企業の発展段階でいえば、組織運営が幼い中小企業的な段階にあり、民主主義的な国家は、様々な蹉跌をなめて成長した大企業的な段階にあるとしたら、言いすぎでしょうか。権威主義的な国家とみなされている世界の国々は、まだまだ聞き分けのない子供のような発展途上の国家のような気がします。そうした国家が、国民のみならず他国の国民の命を預かっていると現状は、なかなかに恐ろしいことです。

 流体シミュレーションで解析対象とする流れ場の形成は、非線形の複雑な支配原理と複雑な境界条件の結果です。権威主義的なエンジニアが、結果を見て安易に解釈すると間違った解釈に流れてしまう可能性も少なくありません。個人主義にも通じる虚心坦懐、先入観を排除した澄みきった気持ちを持ったエンジニアにより、誤りの少ない堅実な解釈が可能になるように思えます。