第四十夜 ナイチンゲール

 世界中が新型コロナウイルス感染症に振り回されている感があります。日本では、多分、世界でも、3密を避けるということが、この呼吸器系の「感染」症対策として有効と言われています。3密は、密閉、密集、密接を意味し、最初の密閉は、窓がなかったり換気ができなかったりする場所を指します。換気の不十分な空間では、室内空気中の病原物質の濃度が高くなり、感染のリスクが高くなる可能性ということのようです。また実際にそうした室内で、感染した多くの事例も知られています。室内の換気の重要性を指摘し、社会的に大きな影響を与えた人として、フローレンス・ナイチンゲール(Florence Nightingale)が良く引用されます。今からおよそ、200年ほど前に生を受けたイギリス人女性です。日本の江戸時代末期、ペリーが浦賀に来航した1853年に始まり、1856年に講和した、フランス・オスマン帝国・イギリスを中心とした同盟軍60万人と、ロシア軍90万人が戦ったクリミア戦争で、敵・味方なく、分け隔てない負傷兵への献身的看護で有名です。

 クリミア戦争は、黒海に注ぐドナウ川の周辺、沿岸のクリミア半島を主戦場としましたが、ロシア艦隊が艦隊基地を設けていたセバストポリの攻防が特に激戦であったといいます。このクリミア半島を中心とした戦役で両軍の戦死者は20万人を超え、第一次世界大戦前、近代史上稀にみる大規模な戦争であったといいます。ちなみにセバストポリは、ソ連邦時代はソ連邦のSLBM搭載原子力潜水艦を擁する黒海艦隊の軍港でしたが、ソ連邦解体後は、ウクライナ領で、ロシアがウクライナから租借してロシア海軍基地がありました。しかし、ウクライナ領であったクリミア半島を治めるクリミア自治共和国は歴史的経緯からロシア系の住民が多く、2014年3月、ロシア軍の進軍下で、セバストポリ特別市とともにクリミア共和国としてウクライナから独立し、ロシア連邦に編入される条約をロシア連邦と締結しました。この編入により、セバストポリはロシア連邦の連邦市という位置付けになり、ロシア連邦に黒海艦隊基地を持つことになりました。しかし、ウクライナを始めとする大多数の国は、このセバストポリのロシア連邦への編入を認めていないため、国際的にはウクライナの特別市のままということのようです。筆者は、黒海沿岸国であるブルガリアに2度ほど観光で訪問したことがあります。ブルガリアは日本ではヨーグルトとバラで有名ですが、観光にも力を入れており、見るからにスラブ系の観光客が大勢、来ていました。白い肌に美しくない刺青を入れ、太ももほどありそうな、太い腕を誇る巨漢の観光客であふれる黒海の海岸で、小さくなって海水浴を楽しみましたが、遠く離れた対岸のセバストポリ黒海艦隊基地のSLBM搭載原子力潜水艦が、海水浴客をじっと見はっているようで、落ち着きませんでした。

 話をフローレンス・ナイチンゲールに戻します。彼女は、両親の2年間の新婚旅行中、フィレンツェで生まれたので、その地の名前をとり、フローレンスと命名されたそうです。裕福な家庭でしたので、英才教育を受けたとされています。フランス語、ギリシア語、イタリア語は読み書き、会話ができたそうで、ラテン語、ギリシア哲学、数学、天文学、経済学、歴史、美術、音楽、絵画、英語(英文法、作文)、地理、心理学、文学などを習得した教養人であったといいます。特に数学に関しては、大学者からの直接指導で、統計学に秀でた能力を蓄えたといわれています。しかし、いくら英才教育を受けたとはいえ、こうした幅広い教養を身に着けるには、並大抵の能力や努力ではかなわないでしょう。やはり、偉人は非凡であるという証拠のひとつで、羨む気さえ起こりません。この非凡な人は、謙虚でありながら強い意志を持っており、若い高貴な女性にありがちな高慢さとは無縁で、良家の好男子の求婚にも応じなかったそうです。20歳過ぎのころイギリスで大飢饉が起こり、訪れた貧しい村で病気や飢えで苦しむ人を数多く目にして、苦しむ人たちを助けたい思いで、看護の道を志した言われています。

 クリミア戦争当時、陸軍から看護を引き受けたナイチンゲールは、野戦病院内の衛生状態の悪さを次々に改革し、状況を一変させたといいます。赴任当初、40%以上あった死亡率が衛生状態の改善で2%までに下がったといいます。戦争終結後帰国した彼女は、野戦病院の経験から、当時の陸軍病院の死亡の大半は、戦争によるケガなどではなく、院内の劣悪な衛生環境にあることを、誰にでもわかりやすく説明するため、学んだ数学・統計学を生かし、様々なデータを可視化して、衛生状態の改善の効果を、イギリス議会に訴え、病院の改革を進めました。このためイギリスは、ナイチンゲールを統計学の先駆者としています。ナイチンゲールは1859年にイギリス王立統計学会の初の女性メンバーに選ばれ、後に、アメリカ統計学会の名誉メンバーにも選ばれています。

 ナイチンゲールは、衛生状態の改善による死亡率の低減の統計学的考察から、「感染」は空気の汚れから生ずるものであり、「感染」は予防できると考えました。ナイチンゲールの病院における感染予防策は、①開け放した窓から新鮮な空気を取り入れること(換気)、②部屋の清潔を保つこと(感染源となる汚物の清掃)、③陽光を取り入れること(殺菌と乾燥)、④多数の病人を密集させないこと、⑤室温を下げないこと(体力を消耗させない)、⑥病院の立地や構造を適正に保つこと、などを挙げています。彼女は神がかり的に主張するのではなく、統計に裏打ちされた、事実から演繹し、主張しました。彼女の主張は、傷病者を収容する病院に関するものですが、感染者があふれる街中でも、同じ予防策が適用できることは勿論です。現代の新型コロナウイルス感染症対策としての「3密」を避けるという標語には、ナイチンゲールの時代からさしたる進歩がない気もしてきます。ただナイチンゲールの関心は病院内にあり、街中の一般的な室内環境ではありませんでした。お酒を飲んで高唱する人もいませんし、大声で議論する人もいないでしょうから、飲食店でのお酒の提供を控えるとか、会話を控えるという、対策にはつながらなかったことは無論ですね。

 ナイチンゲールは、統計学に基づく疫学的考察から換気の重要性を指摘しましたが、換気に関する指摘は定性的で、定量的にどの程度換気すればよいかを示しているわけではありません。ナイチンゲールの活躍した時代から150年以上経た現代では、どの程度換気すればよいかを、もう少し定量的、分析的に換気を考えたくなります。換気は室内の汚れた空気を屋外の新鮮な空気で置換あるいは、汚れた空気を希釈して、呼吸により人体に取り込まれる病原体の量を少なくすることが目的です。呼吸により取り込まれる病原体の量をどの程度まで、少なくすれば安全になるかを、分析的に検討することが好ましいと考えられます。シックビルやシックハウス問題など、換気が不足して健康を害することが大きな社会問題になったことがあります。今も完全に克服されたわけではなく、時おり、被害を訴える人に出会います。シックビルやシックハウスの多くは、人体に健康影響を与える揮発性のガスが室内の建材などから放散されて生じるものが多く、現在ではそれら揮発性のガスの室内濃度に対するガイドラインが設けられており、そのガイドライン以下の濃度となるよう、換気量や建材などからの発生量が規制されています。「感染」症も、呼吸により取り込まれる病原体の量が、一定程度以下になるよう、病原体の室内空気への放散性状や換気量が定められるのが、合理的と考えられます。人が感染症を発病する病原体の量については、自然免疫しか持たず、獲得免疫を持たない人を対象に考えますが、人によって大きなばらつきがあります。発病するに必要な病原体の量は、多い人と少ない人では数十倍に及ぶ広い範囲があることが普通です。同じ病原体の濃度に長時間曝されても、誰もが等しく発病するわけではなく、発病する人もあれば、発病しない人もいる領域があります。空気中の病原体の量を特定し、呼吸により人体に取り込まれる病原体の量と、発病する人の関係を、多数の人で観察することが必要です。今の時代、人為的にこうした検討を行うことは、死亡する可能性もある高病原性の病原体では、倫理的になかなか実行できず、疫学的な調査に頼ることになります。しかし、疫学的な調査では肝心の人体に取り込まれる病原体の量を特定することに困難があります。したがって、検証は、間接的にならざるを得ません。

 現代では流体シミュレーションにより、人が呼吸する空気が室内のどのような経路を経て口元の呼吸域に到達するかを、詳細に解析できる時代になっています。呼吸により人体に取り込まれる空気が室内を運ばれてくる間に、病原体がどの程度、混入するかは、病原体の発生位置や室内の換気条件が詳細に与えられれば解析することは容易です。病原体の発生(感染者が放散する病原体の位置や量)に多くの可能性があるといっても、無限の可能性を検討する必要などありません。代表的なシナリオを、選定し、これを解析すればよいのです。最悪ケースから最善ケース、その間を?ぐ、複数のシナリオを用意すれば、各シナリオ別に、感染の危険性を詳細に分析することができ、対応した対策を立てることも可能です。このシナリオを考え、実行し、解釈するのが、流体解析を操る室内環境の専門技術者です。すべての蓋然性を考え、そのエッセンスから解析すべきシナリオを絞り込み、これを解析し、その結果を分かり易く人々に伝えるプロフェッショナルは、身近にいないのでしょうか。筆者は、たくさんのプロフェッショナルがいることを知っています。しかし多くは、社会に呼ばれることもなく、眠っているようです。

 ナイチンゲールが活躍した時代から150年以上の経った現代、彼女が指摘した換気の重要さを指摘するだけでは不十分です。科学技術のシンポにより、感染シナリオを多数、詳細に分析し、感染リスクを評価して、その対策を立てることが可能になっているにもかかわらず、ナイチンゲールの時代と同じく、窓を開けて換気をしましょうと言っているのを聞くと、寂しさを覚えます。