第三十八夜 逆解析

 普段何気なく使っている言葉に、「受動」と「能動」という言葉があります。英語にすると「passive」と「active」になります。少し大げさですが、文明は、人が自然や資源に対して、受動的な利用から能動的な利用を行うように変化したことにより、圧倒的に進んだとかと思います。受動的な利用、能動的な利用は、古代人の採取・狩猟社会と農業・牧畜社会に対応するもので、農業・牧畜社会という能動的な資源や自然の利用とそれに伴う富の蓄積が、古代文明発祥の源と考えられています。

 この「能動」には、「因果律」に代表される「システム」の入力と出力という関係を人が認識し、入力に意図的な人の行為が組み込み可能と理解したことに始まったものと思います。因果律などの「システム」は、何かが原因となって何かが起こると、人が認識したことで明確化されました。因果律は、自然の仕組みであり、時には、神と考えられたのでしょう。植物の種を土に蒔き、水やりをし、害虫などを取り除いて面倒を見れば、時を経て実りの時期を迎え、豊富な食物が得られます。この「豊富な食物を得る」という出力を得るためには、「種をまく、あるいは水やりをする、害虫を取り除く」などの働きかけ、「能動」的な行為が必要で、自然に備わる他の要素とともに因果律のシステムの入力となります。「能動」というシステム入力は、一種の「制御」入力に対応すると考えられます。古代文明は、農業や牧畜を支配する因果律の中で、天候や土地の条件など、人のコントロールが不能な「受動」的なものと、人がコントロールすることができ、実際にコントロールする「能動」的な2つの入力をはっきりと見出し、収穫した食物を出力として、明確化して生まれたものと思います。

 因果律というシステムは、様々なところで見出すことができます。物理現象などのシステムは、科学的にその機構が解明されたものも多くあります。また、未だ解明のための努力が進められているものもあるでしょう。物理現象だけでなく、個人の人の心理や思考などにも、入力と出力の関係として見出すことも可能です。個人だけでなく、集団として、人の社会で生じる経済活動や政治活動など、様々な活動にも、システムを見出すことができます。日々の、ニュースなどを見ますと、ニュースキャスターや評論家が、短期的、長期的に、様々な社会の見通しを表明しています。これらもその解説が、科学的、客観的か否かは別ですが、彼らが観察した事象の因果律のシステム分析し、その因果律システムに対して、与条件として制御不能な入力と、政治家や人々が変わりうる、あるいは制御可能な入力とを把握し、実現可能性の高い制御可能な入力を与えて、因果律のシステム分析からその出力を導き出して、意見表明しているといえるでしょう。

 このようにシステム入力には、与条件として制御不能な入力と制御可能な入力がありますが、制御不能な入力には更に二種類があります。一つは、人がコントロールできない自然現象やすでに終了し、過去に遡ることのできない確定的な事象などによる入力であり、今一つは、確率的に生じる偶発的な擾乱事象です。システムによっては、人が未だ認識できていない入力要素もあるでしょう。多くの場合、これは因果律システムの中にブラックボックスとして組み入れられか、あるいは偶発的な擾乱事象による入力とされるようです。未来の予測者たちは、この制御できる入力と、制御ができない入力の両者を、因果律システムの入力として解析し、短期的、長期的な世界の事象を出力として得て、預言を行っているのでしょう。

 この因果律というシステムが十分に解明されていれば、入力に左右される出力に翻弄されるだけでなく、人にとって望ましい出力が確保されるよう、制御可能な入力を整えてあげようという考えが、当然出てきます。「出力を与えて、これを導き出す制御可能な入力を探る」、これが、「逆解析」です。

 自然現象、自然災害は、しばしば、人の命を奪います。古代人の認識した災害に関する因果律システムを、筆者なりに想像してみます。神(自然かもしれません)の都合をないがしろにして、人の勝手な都合により行動すると、神は、人を災害や厄難によって、強く戒めます。人の勝手な都合により船に乗って航海している時に嵐に遭遇すれば、悪くすると難破して多くの人の命が奪われることがあります。人の勝手な都合により、橋を架けたとしても、大水や土砂流出などの災害により、橋が流され、また多くの人命が失われることもあるでしょう。地上のすべての因果は、神(自然)が行っているとすれば、人が、自分の都合で、神の都合を忘れた行動をすると、神は戒めとして災害をもたらし、人の命を奪うという因果律が経験として人の頭に浮かびます。人の都合による行動で、神の怒りに触れて、多くの人命が失われる結果を避けるためには、神が戒めとして行う災害に備えて、神の欲する人の命を、人柱として予め神に捧げておけば、出力として多くの人命が失われることはないと考えるでしょう。農業・牧畜の発祥前から、古代人は、神(自然)の因果律システムを逆解析し、制御可能な入力として、予め神に犠牲者を捧げ、出力としての大規模災害による多くの人命損失を防ごうとしたのだと思います。

 システムの構造が完全に理解されており、制御可能な入力と与条件となる制御不能な入力が規定されていれば、これら入力に対応する出力を得ることができます。非圧縮の粘性流体による流体現象は、質量保存則と運動量保存則に支配されており、初期値、境界値を入力として与えれば、数値解析などのテクニックを利用すれば、出力としての流れ場の性状は、すべて解析されます。すなわち、実現象として存在可能な出力から、その出力を導き出す、入力である初期値・境界条件のセットを求めることは可能です。しかし、問題もあります。逆解析では、与えるシステムの出力が、実現象として存在可能であることが、解析の前提になっています。これは、AならばBであるという論理において、BならばAであるという論理が成立しないことで、良く知られていることだと思います。対偶である、Bでないならば、Aでないという論理は、成立します。しかし、それ以上の論理を求めることができません。実際の物理現象としてあり得ない流れ場を与えて、それを実現する、初期値・境界値を求めても、求まる道理がありません。逆解析が可能な流れ場は、その流れ場が、支配原理である質量保存則と運動量保存則を満たす時だけです。任意の流れ場でその流れ場が支配原理を満たすか否かも不明な場合に、逆解析で、これを与える初期値、境界値を求めることはできません。できることは、流れ場解析で、入力に対応する出力である流れ場が、逆解析で求められる流れ場条件を満たすか否かをチェックし、それにより出力が求められる流れ場条件を満たす入力条件を、探査していくことになります。流れ場の逆解析は、ある意味、最適化探査そのものになります。

 非線形現象の流れは、人間社会と同じで機会均等な平等を実現してやっても、結果平等が達成できないことがあります。