第三十二夜 社会的スキル

 勘で決断し、物事を進めていくことが世間一般に、良く行われます。政治家の決断などは、勘が先でその後、勘を説明する理屈を考えるということが良く行われるやのようにも聞き及びます。

 話は少し違いますが、自転車やスキーなどは、目や耳で得た情報や慣性力など体感により得られた情報を基に、手や足などの筋肉操作で行います。食事の際の、箸使いや、単純な走る、歩くことも、自転車に乗るのと同じように、目や耳などで得た情報を基に、手足の筋肉を操作して行います。

 これら身体運動を円滑に行う能力を「運動スキル Motor Skill」と言っています。「運動スキル」に対応して、人として重要な能力に「社会的スキル Social Skill」があります。これは、社会生活の中で他人と交わり、共に円滑に暮らしていくのに必要な能力です。WHO(世界保健機関)は、「社会的スキル」を構成する具体的な要素として、意思決定能力、問題解決能力、創造性豊かな思考能力、批判的思考能力、コミュニケーション能力、対人関係能力、自己意識能力、共感性能力、情動への対処能力、ストレスへの対処能力などと、多様な能力を挙げています。これらの能力を持ち合わせることで、円滑な社会生活を送れるわけで、この「社会的スキル」は、教育学や心理学、社会学など様々な分野で研究、解析が行われているようです。

 「運動スキル」は比較的わかりやすく、またその能力は、速さや高度さなどを競う競技などで、人々のその能力の優劣を評価することが可能です。オリンピックなどはその典型かもしれません。「運動スキル」には、様々な分野があり得ます。その様々な分野で、誰が高い能力を持っているか、我々に良く示してくれる一つの機会が、オリンピックといっても間違いではないでしょう。人々の「運動スキル」に関しては、トップアスリートの示すレベルから、多くの人々が大きな困難を感ずることなく、生活を営むレベルの能力まで様々な段階があると思われます。このような一般的なレベルの「運動スキル」を達成できず、生活に困難を感じるようなレベルになると、「運動スキル」に関して、身体的障害を持つ人と認識されます。現代は、身体的障害を持つ人も、一般の人と同様に社会に参画することを可能とするユニバーサルアクセスが推奨される時代です。身体的障害を持つ人も、多くの人々と同様に社会に参加できるよう、公共施設の整備が進んでいます。

 「運動スキル」が測定可能で、その順位付けも可能なように、「社会的スキル」も、その多くは、高い、低いといった尺度評価が可能です。高い能力を有しているか否かをある程度、定量的に判断することは可能です。「社会的スキル」が十分でなく、社会の中で生きづらさや大きな困難を感じる人は、身体的な「運動スキル」が十分でない人と同じく、精神的な障害を持つ人として、社会的な保護の対象となります。過酷なミッションを成功裏に導くことが、極限的に望まれる宇宙飛行士などは、「運動スキル」のほか、「社会的なスキル」も、厳しく評価され、そうした適性試験に合格した者しか、その職種にあたることができません。「社会的なスキル」は、社会人として組織内で生きていくことを希望する人々には、その能力が評価されることがあります。就職試験などもその一つです。専門分野の知識や能力が評価されるだけではありません。その人の「社会的スキル」も併せて評価され、採用の適否が検討されることもあります。眉唾かもしれませんが、専門知識よりは、「社会的スキル」の能力を重要視して、採用を決めるとうそぶく会社もあるようです。「社会的スキル」が欠け、障害と認められる人々も、社会の中で受け入れられ、幸せな暮らしが送れるようにするため、一定規模以上の会社は、このような障害を持つ人々を一定数以上、受け入れることも義務づけられています。

 我々、平凡な庶民も、日ごろ接する家族、隣人や友人ばかりでなく、マスコミを介してその言辞を知ることになる政治家や官僚、経済人などの、雲の上の人々の「社会的スキル」を個人的に評価していることと思います。他人の「社会的スキル」を本人の同意なく勝手に評価することは、人権の観点などから許されていません。人のスキル能力が時間的に固定されていると考えることはできません。時間的に変動し、発展することもあり得ることでしょう。「運動スキル」は、運動競技の際の、本人や環境の状態に影響されて時間的に変動します。世界ランキング1位に評価された選手が必ずしもオリンピックで金メダルに輝くことが保証される訳ではありません。「社会的スキル」も、同様でしょう。自己研鑽や学習などによりその人の「社会的スキル」が大きく向上することや、失意により甚だしく低下してしまうこともあり得るかもしれません。ある時点での評価で、その人の能力を評価してしまうことは、大きな間違いになるかもしれません。

 米国の大統領に関して、その政治的な信条や主義主張は別として、「社会的スキル」に関しては、かなり特異な人であったということを聞くことがあります。心理学などを専門とする人々は、日頃の社会的な行いから、その人の「社会的スキル」を診断することも可能であったと思います。しかし、選出された大統領が、そうした専門家に評価されることを望んだり、評価結果が公表されることを望んだりしない限り、そうした情報が世に出ることは許されないでしょう。政治家の信条、主義主張も大事ですが、政治家の人としての「社会的スキル」も、政治家たる人の重要な要素となります。過去、世界には、ムッソリーニ、ヒトラー、スターリンなどの恐るべき独裁者が出現し、数千万の人々の無残な死の責任があるとされています。思想、信条が、悲惨な歴史の原因であったことに、間違いはないと思いますが、独裁者の「社会的スキル」に問題があったことも否めないでしょう。政治的組織を維持、発展させ、大衆を扇動し得たという事実から、「社会的スキル」のある一面に秀でていたことに間違いはないでしょう。しかし残酷で功利的な決断を平然としたことから考えても、その「社会的スキル」にバランスを欠いていたことに疑いはありません。現代は、このような「社会的スキル」に問題のある人が、過度の影響力をふるまい、多くの人々に不幸をもたらさないよう、教訓化もされています。しかし民主主義国家のお手本と、自国のことを考えている米国でさえ、怪しいことが起こっている気がします。

 政治家の勘による政策判断や政策決定の多くは、その政治家の「社会的スキル」の巧拙によるところも多いと思われます。政治家は選挙によって選出されます。企業が大学生を就職試験により選抜しているように、選挙される政治家の「社会的スキル」が客観的な評価尺度で評価されて選挙の際の参考にされても良い気もしてきます。少なくとも「社会的スキル」のバランスの欠如による政治家の不祥事による政治の空白は最小化できるかもしれません。勇気ある政治家志望の人々が、自発的にご本人の「社会的スキル」の客観評価、そのバランスを公表してくださると、我々庶民は、選挙の際に役立つかもしれません。

 流れ場のCFD解析を「運動スキル」と「社会的スキル」で評価する類推も楽しいものです。CFD解析を目的にかなって要領よく行うことは、「運動スキル」の巧拙に対応しているように思われます。解析された結果から、流れ場の性質を理解し、これを上手に制御する方法を考えることは、「社会的スキル」に対応しているように思われます。流れ場の構造を理解し、これを上手に利用するには、「社会的スキル」に代表される多面的で、バランスの取れた能力が必要とされます。勘に頼った判断ではなく、確かな「社会的スキル」に基づいた解釈が必要なのです。