第三十夜 解釈の違い

 学生のラジオやスマホの音楽などを聞きながらの「ながら勉強」は、効率が悪いと、教師などに良く言われたものです。今でも言われているのかもしれません。社会人のラジオやスマホの音楽を聴きながらの「ながら仕事」に関しても、やはり、仕事の効率が落ちるということで、在宅ワークでない限り職場では難しいかもしれません。その点、飲食店など客商売の店舗では、BGM(バックグラウンドミュージック)を流しながらの「ながら仕事」ができて、チョッピリうらやましい様にも思えます。筆者などは学生時代からの「ながら勉強」の習性が身に染み付いてしまって、また職場も個室を与えられる関係で、ながらを注意するような上司もおらず、音楽を聴きながらの「ながら仕事」をしてきました。第一、そうでないと、仕事がはかどりませんでした。尤も、人と面談するときや講演するときに「ながら」を行うことはさすがに控えます。でも、自由になる環境であれば、低い音量で面談相手のお客様の邪魔にならぬようBGMを流しています。

 この「ながら仕事」、筆者の場合、中毒とも言える状態になっていて、仕事を始める際にBGMがないと、あれこれ周辺の状況に気が散り、仕事に集中できず、なかなか仕事を始めることもできません。そんな時は、無理矢理、仕事を初めても、意識は仕事以外の諸々を周回するだけで、全くはかどりません。BGMは、仕事に集中するための不可欠な導入剤になってしまっています。ただ、仕事の最中にそのBGMを聞いているかと問われると、違うようです。BGMを流していますし、耳には入っているのでしょうが、頭の中ではBGMのメロディ、リズム、ハーモニーは意識されません。全くのうわの空状態になります。聞こえているのでしょうが、頭の中、意識の中は、BGMは意識されなくなるのです。BGMに関しては、うわの空状態になるのでしょう。この上の空のBGMは、時々、正気に帰ることで気づきます。筆者の場合、BGMは再生ディバイスで「全リピート」を設定し、CD一枚分が繰り返されますが、上の空から正気に戻り、BGMを意識した時、どういうわけか先ほど聞いたばかりのアルバムの始めの楽節が演奏されていて、その間、自分の意識がBGMからは飛んでいたことを実感します。

 このような導入としての意識の移動と、集中すべきものへの意識の強化やほかの刺激のマスクは、聴覚だけでなく、視覚でも生じていると思います。よく言われると思いますが、賃貸オフィス物件で、外の景色が良く見える物件は賃料が高く、人気もあります。仕事に外の景色は不要と考える経営者は、多くいそうですが、成功しないと思います。仕事に集中する前、その前振りとして、窓の外の景色をぼんやり見ることが、必要なのです。この前振りの刺激が、目の前の仕事、机の上にある書類への集中を高めるのに有用なのです。いきなり書類に目をやるのではなく、いったん仕事とは無関係な外の景色に意識を移し、その反動、すなわち返す刀で仕事に集中するわけです。ゴルフをされる方は、ショットの際のフォワードプレスという言葉になじみがあるかもしれません。ショットをスムースに起動させるため、いきなりクラブを振り上げる(テイクバックせず)、クラブを一旦前に押し、その反動でスムースにテイクバックを行う、あれです。バイクでカーブを曲がるとき、最初から内倒せず、まずは外側にバイクを振ってからその反動で内倒してカーブを曲がるのと同じです。建築では、視覚的な外部刺激を「外に繋がる」室内と称しています。室内が窓を介して外の景色とつながることにより、仕事や勉強の効率を上げるのに、大いに有効なことが知られています。諸説がありますが、筆者は心理的な反動をつける外部刺激が有効と考えています。BGMに戻ります。上司は、部下が、イヤホンなどでBGMを流しながら仕事をしていると、仕事に集中せず、怠けているように捉えるかもしれません。しかし、集中への前振りとして、仕事の効率を高めることも多いと考えて欲しいものです。

 BGMによる「ながら仕事」の効能を読者にアピールしているわけですが、この10年ぐらいで、自身のBGMで聞くクラシック音楽の好みが変化してきたことに戸惑っています。筆者の場合、BGMはジャンルをあまり問いませんが、クラシック、特に管弦楽曲、シンフォニー、を選ぶことが多いです。これは、小学校教育や親の好みが、子供の習性に大きく影響し、筆者の場合は結果として、シンフォニーを選ぶことが多くなった気がします。中学生ぐらいになると、自我が発達し、音楽も自分の意思で聞き始めます。自分の意思が強くなるころ、男女の性差も意識するようになります。ちょうどこの時、男性と女性を強く意識させるリムスキー・コルサコフのシェヘラザードに感激してシンフォニーが好きになった気がします。筆者の女性に対する幻想の多くはこのシェヘラザードに原因があると思っています。最近テレビドラマでとりあげられた作曲家の古関裕而が自伝の中で、青年期にリムスキー・コルサコフのシェヘラザードをはじめとして、ストラヴィンスキー、ドビュッシー、ムソルグスキーなどに傾倒したと言っているようです。これは筆者の自我の発達期の作曲家の好みと一致します。結構、不変的な傾向のような気もします。そうした作曲家の音楽に、人の性や情念の象徴を見ていたのだと思います。

 年を取って枯れてきたせいか、最近、BGMで良く流すのは、彼らに比べれば、あまり人の性や情念を強く意識させない、ベートーベンの交響曲が多くなりました。ベートーベンはポピュラーな作曲家なので、彼の全交響曲を録音したCD全集も、多く販売されています。私も同時代のドイツ系指揮者として、カラヤン指揮のベルリンフィルのものと、ショルティ指揮のシカゴフィルの二つの全集を持っていて、BGMとして毎日のように聞き比べをしています。多くの公立図書館は、CDも貸し出しますが、ベートーベンの交響曲はポピュラーですので、様々な指揮者、楽団での演奏を借り出して聴くことができます。以前、アンセルメ指揮のシェヘラザードよりカラヤン指揮のシェヘラザードが好きだと表明したと思いますが、ベートーベンの交響曲に関しては、カラヤンのものは、あまり好きになれません。レコード愛好家の方でなくても、ベートーベンの交響曲の演奏が指揮者によって大きく違うことに気づかれると思います。テンポも音色も音の響きも、とても違います。演奏会場の音響特性や録音技術の違いもあるかもしれませんが、指揮者の作曲家の作成した譜面の解釈が大きく違うことが原因です(と思います)。同じ譜面の演奏で、こんなにも違うと思うと、やはりクラシック音楽は、作曲家の曲を聴きに行くのではなく、譜面を解釈した指揮者の曲を聴きに行くということになるのでしょうか。こうして考えてみれば、ピアノやバイオリン、指揮者などの国際的なコンクールがありますが、これも演奏技量のコンクールではなく、譜面を解釈した演奏者の解釈に対するコンクールということになるのでしょう。

 同じ譜面を多様に解釈して多様な演奏が生まれるように、流体現象も同じ支配方程式を、数値的に解釈して解が得られます。科学者、技術者としては、再現性を重んじたいので、数値的な解釈の違いで出てきた結果が、異なるのは困ったことだと思います。しかし、現在は、音楽の譜面の解釈と同様に、多様な解が得られて、流通しているようです。筆者は、カラヤンのように指揮者としての芸術的解釈をして演奏する流体解析より、ショルティのように作曲家の譜面を厳格に解釈して演奏する流体解析が好きです。