第二十八夜 流れの寿命

 古代、権力者は「不老不死」にあこがれ、虚しくこれを追求した話が、世界の様々な場所に残っています。猿山のボス猿でもありませんが、権力を持てば、良くも悪くも様々な利益が伴います。ただ、排他的あるいは独占的な利益を享受すれば、享受するほどに、これを脅かすものも多くなります。権力を維持し、自分の望む後継者に、これを譲渡することも怪しくなります。「不老不死」はこのような不安の中で、これを解消する、夢の一つとして生まれたものかも知れません。「不老不死」は、今の繁栄の基礎となる健康で頑強な状態が永遠に続くこと、「時間スケール無限大」を意味します。

 無限大の時間スケールは夢物語です。始まりがあれば終わりがあるというのがこの世の習いです。平家物語を生み出した中世の日本人も、「祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者もつひにはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。」と「有限な時間スケール」を謡っています。時代が下がって、少し科学的に思考する近代人は、「時間とともにエントロピーは増大する」という普遍的な原理を知っています。時の流れの中で、永遠に不変などという、特異的な状況が、外部に閉じた場で存在するなどとは思わないでしょう。

 「あの世」や「輪廻」という概念も、「魂は永続する」すなわち「無限の時間スケール」を望むという、強い希望から生まれたように思えます。権力者の死んだ後も次に生きるあの世で豊かに暮らすという希望が、終わりのない「あの世」を生み出したのでしょう。心の持ち方の問題ですので、「不老不死」ほど、非現実的な夢ではありません。権力を持たず、悲惨な境遇の中を生きた人々が、「あの世」に期待するのも「無限大の時間スケール」への希望と考えることができます。豊かに暮らす権力者の「不変」、「時間スケール無限大」、へのあこがれとは違いますが、やはり「無限大の時間スケール」への希望の現れのようにも思えます。貧しく疲れはてて、「破れかぶれになって破滅への道を急ぎかねない」人々に、精神の安定をもたらす麻薬として働くようにも思えます。「魂は、永遠です。短い現世の苦しみは、永遠に続く魂からみれば、ほんの一時的なことです。」、「現世から旅立つ『あの世』には無限に続く楽があります。今この一時の苦しみで自棄になれば、永遠の楽も消えてしまう。」という理解になるのでしょうか。

 どんなに「不変」を望んだとしても形あるものは、寿命、「有限な時間スケール」があります。形のないもの、たとえば人が生み出した思想や学問などには、こうした寿命はなく、不変的な真理、無限の時間スケールの中に生き続けるというようなものもあるかもしれません。しかしながら、見出された原理も、こうした概念を理解して伝承し、利用する人が絶えてしまえば、実質的には失われてしまいます。その意味で、世の中、すべてが時の流れとともに生まれて失われ、寿命のないものはないようにも思えます。

 それほど遠くない過去に栄えた「全体主義社会」の寿命は、10年単位の短いものでした。しかし、現代も残っている「全体主義社会」の寿命も同じく、短いのではないかという期待や、現代の多くの国で社会の礎となっている「民主主義社会」にだって寿命があるかもしれない・・・などという悲しい予測も、考えたくない「時間スケール」の大小の問題かもしれません。

 あらゆるものに、時の流れとともに生まれ、亡くなっていく寿命を考えるのは、人が世界を認知し、物を認知するのに、とても分かりやすい方法だと思います。あらゆるものに寿命を比喩的に当てはめ、始めと終わりのある寿命という考えは、有限な時間スケールで生じる様々な現象を、生きた自分の体で解釈する良い方法になります。川の流れは、源泉で生まれ海に流れ込むことで終わりを迎えます。もう少し細かく寿命を考えることも可能です。川の流れが、特定の町を通過する際、町に入る流れは誕生、町から流出する時は終末というわけです。建物に流入、流出する空気の流れにも、当てはめが可能です。建物や室内に流入するときが誕生、建物や室内から流出する時が終末です。

 この流れを人生に比喩することは面白いと思います。町に入り、生まれた川の流れは、途中に設けられた堰から田畑を潤し、一仕事して壮年期を迎え、再び川に戻ることもあるでしょう。堰から取水されて、浄化されて綺麗な花嫁となり、上水として建物に供給され子育てをし、老年期を迎えて、下水として排水され、暗い下水管の中で介護生活を送り、最後に下水処理場で浄化されて、再生して川に戻ってくることもあるでしょう。川の水は、誕生して終末を迎えるまで、様々な人生経験をするわけです。川の水は、レールを敷かれた決まりきった人生を送るばかりではなく、時には、河川堤防を乗り越えて、町中でやんちゃをし、ポンプに逮捕されて強制的に川に戻されることだってあるかもしれません。

 建物内の空気の流れも同様です。建物の外から流入し室内に入って生まれる空気は、無垢のフレッシュな赤ちゃんです。この空気は、室内の様々な場所を経て人生経験して、最後に室外に排出され終末を迎えます。その間、フレッシュな赤ちゃんは成長し、自らの酸素を人に提供して役立つ青年となり、人の代謝で生じた二酸化炭素やそのほかの揮発性の代謝物で汚されながら壮年期を過ごします。歳を重ねて汚染物に汚され老年となった空気は最後に、この世に別れを告げ、室内から排出されて、その一生を終えるわけです。

 川の流れの水は、目で見ることができますが、空気は、人の目には透明で見ることができません。室内の空気が無垢の赤ちゃんのようにフレッシュなのか、あるいは、人生の垢にまみれた老人なのか、人の目で観察することはできません。しかし、この室内の流れを深く知ろうとすれば、こうした室内の空気がそれぞれの場所で、どのような年齢であって、後どれぐらいの時間、室内に留まって余生を過ごし、あの世に旅立つのか、知りたくなるでしょう。室内の空気の流れは、室内で生じる循環流により、よく混合されています。その場その場で、無垢の赤ちゃんと垢にまみれた老人の割合が違います。皆さんが呼吸しているその場所の空気は、無垢な空気と汚された空気の割合は、どの程度か、無垢な空気の占める割合の大きい若い人々が集う場所がどこにあり、汚された空気の占める割合が大きく老齢化した人々が集う場所がどこにあるのか知りたくはありませんか?空気は人ではありませんから、人格などはありません。どんなに厳しくその状況を把握し、利用しても人権問題は生じません。安心して解析し、その結果を利用し、その偏りを利用しても、社会的な非難に晒されることはありません。

 CFD(Computational Fluid Dynamics)は、少し技を使うと、上記のような空気の年齢や年齢の偏りを容易に解析し、これを利用し、制御することを、可能にします。筆者は、こうしたCFDを用いた空気の寿命とその空間的分布の解析を開発した一人です。しかし、世の中のCFD利用者は、こうした解析が「差別」につながる倫理の問題とでも思っているのかと疑われるほど、使われていないことを残念に思います。