第二十二夜 生命を作る

 2020年のこの春、世界的にウィルス感染が猛威を振るっています。感染防止のため人との不用意な接触による感染リスクを避けるため、 歓楽街に繰り出すことも行楽に行くことも制限されています。都市封鎖、鍵を掛け下すという言葉も頻繁に耳にします。早く収まってほ しいものです。ここ10年ほど、ウィルスと聞くと、人や動物などに感染して健康被害をもたらすウィルスではなく、コンピュータなど情 報系のシステムに忍び込んで、本来の機能をマヒさせるあるいは、悪意のある動作を行ういわゆるコンピュータウィルスが意味されるこ とが多かったと思います。私の連れ合いなど、自分の使っているPCに表示されるハイパートランスポートプロトコールアドレスを怖がっ て、必ず近くの人に安全性を尋ねて、納得しないと作業を進めることができなくなってしまいました。周りの人は仕事を中断されて迷惑 ですし、本人もインターネット世界が怖くて仕方なく、自由に歩き回ることすらできません。

 人や動物に感染するウィルスは、生物ではありません。生物は、「代謝」と「自己複製」の二要素を持つものを言います。代謝という と少し難しい言葉かもしれませんが、生物は、成長や増殖に必要なエネルギー源を自分の外部から栄養などの形で取り入れ、複雑な化学 反応をへてエネルギーに変換していますが、ウィルスは代謝を行わないので、生物としての大事な要素を欠いています。また、自己複製 も自分の内部では行えません。他の生物の細胞内に侵入して、その自己複製システムすなわち遺伝子複製システムを利用して自己複製を 行っています。ただウィルスも他の生物と同じで、DNAもしくはRNAによる遺伝子を持っており、その遺伝子の複製をつくることにより、 自己複製を行うことには変わりありません。

 生物の中で行われる、代謝や自己複製のシステムは、高校の生物の授業で学ぶことになると思われますが、筆者の高校生時代を振り返 ってみますと、代謝に関しては、アデノシン3リン酸ATP、アデノシン2リン酸ADPの学習したことを覚えていますが、DNA、RNAの複製の メカニズムに関わる分子生物学は、学習した記憶がありません。大学時代は工学系でしたので、生物学は学んでいません。多分、このこ ろはまだ、分子生物学は発展途上にあったのだと思います。筆者の高校時代は、およそ40年前ぐらいです。分子生物学は、きっと、こ こ数十年で長足の進歩を遂げているのだと思います。筆者は流体力学など主に物理学的なことを専門にしていますが、バクテリアやウィ ルスの人の生活環境下での感染拡散速度の解析の観点から、バクテリアやウィルスなどの集合体、環境中のいわゆるマイクロバイオームの 遺伝子解析と分析を行ったことがあります。専門家でもない筆者が強調するのも変ですが、遺伝子解析技術は21世紀初頭に爆発的に進歩 しています。今から二十年ほど前、人の全遺伝子解析が世界的な大規模研究として世界の研究者が分担し、十年近くの年月をかけて行わ れましたが、現在では、次世代シークエンサーNGSが21世紀初頭に開発され、人の全遺伝子解析(30億ベース3Gb)の解析も数時間、費 用も数万円程度でできるようになりました。人の全遺伝子情報も3Gb程度、1bを2bitと換算すれ1G byte程度で、それほどBigなデータ というわけでもありません。

 現在流行中のウィルスに感染しているか否かは、人から粘膜などの検体を採取して、ウィルスの特定遺伝子配列(多分数Kb程度以下で しょう。筆者は知りません。)をターゲットとしてPCR増幅を行い、その特定遺伝子配列が検体中に存在するか否かで判断しているようで す。リアルタイムPCRを用いて、特定遺伝子配列の有無を検出することなど、現在ではそれほど難しいことではなく、価格もたいしたこと はありません。遺伝子解析に限れば、多分一検体あたり数百円程度であり、手慣れた技術者であれば、数時間で結果が得られる時代です。 人から検体を採取するのは、感染防御に手慣れた専門家が必要なので、遺伝子解析ではなく検体採取に、人手と費用が掛かるのであろうと は想像します。しかし、韓国ではドライブスルーの遺伝子検査で、一日当たり数万件の遺伝子検査を行うのに対し、日本では、一日数千件 しかできないと非難を込めたニュースを聞きますと、やはり日本は、何かおかしい。技術的な隘路などあるはずも無く、公衆衛生に関わる 行政的隘路によるものであろうと想像します。

 それにつけても、この人に感染するウィルスのPCR検査は、コンピュータのウィルス対策ソフトのプログラムデータのパターン検査で、ウ ィルスを発見するプロセスと何と似ていることでしょう。うれしくなりそうです。

 さてさて、ウィルスはさておいて、生命に戻りましょう。現在の分子生物学が行き着いた先は、物理現象をコンピュータシミュレーションで 再現するのと同様に、生命現象をコンピュータシミュレーションで再現することです。生物の中で行われる遺伝子の複製過程の詳細をコンピュ ータシミュレーションで再現すること、細胞のリボゾームの中で行われる遺伝子コードからたんぱく質を合成する過程をコンピュータシミュレ ーションで再現すること、細胞のミトコンドリアの中で行われるADPからATP合成の過程や、そのほか複雑な化学変化を、1分子、1分子の追跡か らコンピュータシミュレーションで再現することは、現在のコンピュータ能力があれば、それほど難しいことではないようです。

 人間によって作成、またはシミュレーションされた生命体を人工生命と呼ぶそうです。現代は、生命現象のシミュレーションをコンピュータ 内("insilico")で行なうことも可能になっているのです。生命現象をコンピュータの中でフルシミュレーションを行えば、文字通り「生命」を 持つ人工生命が生まれたものとみなせます。単に「仮想現実」の一種のように思われますが、生物屋さんはこれを仮想現実とは言わないようで す。思い入れも込めて強い人工生命(strong Artificial Life, または Strong Alife)と呼んでいるようです。生命現象の一部だけをシミュレ ーションしたものは、弱い人工生命(weakAlife)と呼んでいるようです。バクテリアなどの単細胞生物であれば、強いAlifeは、そう遠くないう ちに実現可能となるでしょう。コンピュータシミュレーションにより、多細胞生物、脊椎動物や人の生命現象が再現されるのは、案外、時間がか からないかもしれません。そうなれば、現在は医学研究や薬開発の過程で、多くの動物が犠牲になることも、人に対する人体実験が行われること もなくなるのかもしれません。