第二十回 ~アトリウム・大空間解析 その3~

 筆者にはいくつかささやかな趣味がありますが、そのうちの一つにボクシング観戦(特に世界タイトル戦)があります。モハメッドアリ、マイクタイソン、マニーパッキャオなどの迫力に満ちた試合が今も記憶に多数残っています。最近では特に井上尚弥選手に注目しています。我が国でのボクシングの世界タイトル戦は「(後楽園ホールとならんで)格闘技の聖地」とされる埼玉スーパーアリーナでたびたび開催されます。同アリーナは国内最大級の多目的アリーナ(最大37000席)でもあり、2021年には、東京オリンピック大会のバスケットボール競技会場としても使用されました。

 このアリーナ(設計NK設計、施工はT建設他:竣工2000年)は筆者が数多くCFD解析を行ってきた中でも特に記憶に残る建築の一つです。

 今から遡ること約27年前の阪神淡路大震災(1995年)が発生した頃、営業から近く大きなコンペがあると知らされ、緊張しながら解析準備をはじめたことを記憶しています。筆者らが担当したのは、同アリーナの建物内部だけでなく、周辺外部も含めた温熱環境解析でした。このクラスの大型コンペでは「周辺環境との調和を含むサステナブル性」に関する提案力がコンペ当選の肝のひとつとなります。

 本プロジェクトでは、埼玉大宮の気象特性(季節ごとの卓越風等)を考慮し、周辺環境と調和するように大屋根形状や建物全体形状が決定されました。 具体的には、夏季は南寄りの風をアリーナ内へ取り込むように大屋根の勾配が決定され、逆に冬季には流線型をした建築形態がビル風の発生を抑えます。これらの効果の確認にはCFD解析とともに風洞によるレーザー気流可視化実験を行い合わせてコンペ資料として提出しました。それから約20年後に行われた2015年の新国立競技場コンペでも同様に大屋根形状を利用した風環境制御、レーザー光を用いた風洞可視化実験をコンペ資料として提出しましたが、これらは本アリーナでの経験をもとに行ったものです。 (新国立競技場の環境解析についてはいずれお話ししたいと思います。)

 その他屋外環境系では風の道と広場の植栽による気象緩和、大屋根による日射遮蔽、外部風を利用した自然換気による快適性の維持と省エネルギー等がテーマでした。(これらの検討アイテムは計画される建築の地域・規模・種類を問わず今後も不変です。)

 一方、本プロジェクトにおける屋内環境解析ではいくつか特徴がありました。同アリーナは客席やステージなどが可動であるため、アリーナモード(大空間使用時)を劇場モード(空間分割使用時)に切り替えることが出来ます。従って各々の状態での環境解析が個別に必要となりました。その中で筆者らが特に注力したのがアリーナ使用時の大空間空調です。空調エネルギー削減のため、大きな楕円形の観客席部分のみを空調気流が旋回する旋回流空調方式を採用しました。同空調方式の性能確認には当時自社導入していたスーパーコンピュータVP2600を用いました。吹き出し口個数が百個以上ありメッシュ数にして100万弱でした。現在ではこの数十倍の規模のメッシュでも解析可能ですが当時の室内CFD解析としては最大規模の解析でした。

 数カ月後、本社から技術研究所(当時)になぜかFAXで当選結果が送られてきました。落選という下馬評もあったため当選と分かった時は大変嬉しく苦労が報われた思いでした。 コンペで当選すれば終わりというわけではなく、むしろそこから本格的な実施設計が始まります。改めて全社的なプロジェクト室が立ち上がり意匠、構造、設備担当者の合同会議が毎週実施されました。そこでは様々な意見がぶつかり合い、なかなか意見がまとまらず、時間がひたすら経過する場面もたびたびありました。筆者はこの頃からいずれの建築プロジェクトにおいてもとにかく「早期の合意形成とそのための戦略」が必要であると強く感じるようになりその戦略の鍵は「可視化」にあると考えました。

 可視化がもたらす効果は大変大きく、例えばCFDにおいても単独解析の場合は可視化結果が即座に関係者全員の理解を深め計画が早期にまとまることもあります。しかし通常の建築計画プロセスはCFD以外の他の要素(音、光、視覚、動線等、更には意匠、構造)との関係も含めて検討が行われるため、調整(合意形成)に時間がかかります。そこでこれら多数の要素も同時に3次元仮想空間上で可視化し、建築全体最適を目指すのに有効ではないかと考えたのがVR(Virtual Reality)技術です。このような構想を考えていた頃、VR技術を適用するのに最適と思われる(埼玉アリーナの規模をはるかにしのぐ)大プロジェクトの話が舞い込んできました。 これについては次回のコラムで触れたいと思います。